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多喜浜塩田遺跡めぐりへようこそ

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ページID:0003083 更新日:2014年12月1日更新 印刷用ページを表示する
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 多喜浜には、現在でも、塩田に関係する建物、文化財等が点在しております。

 ご関心のある方は、一度訪ねてみてはどうでしょうか?

■多喜浜塩田遺跡巡りガイドについて

 開催時期 随時(ただし、ボランティアの都合によります)

 申込資格 10名以上の団体

 費   用 無料

 連  絡  先 多喜浜公民館 Tel (0897)45-0014

多喜浜塩田のあった街並みを訪ねてみましょう

 多喜浜塩田遺跡巡りの代表的な場所をご紹介します。

多喜浜公民館玄関前です。

 多喜浜塩田のあった街並みを訪ねてみましょう。

多喜浜公民館外観

アツケシソウ・岡田家

 北海道厚岸町に生息するアツケシソウは、多喜浜塩田から運び出した塩が由縁となり、この地に繁殖するようになりました。

 多喜浜塩田が廃田となった以後、岡田氏と公民館青年学級によるご尽力のおかげで、現在も、その姿を残しています。

 アツケシソウは、現在、新居浜市の天然記念物にも指定されています。

アツケシソウ・岡田家

明正寺

 正式には、龍宝山観音院明正寺といい、約350年前、明正天皇の病気祈願を命じられたほどの由緒正しきお寺です。

 こちらには、市の天然記念物であるミョウショウジサクラがあります。また、多喜浜塩田の開祖・深尾権太輔のお墓があります。

明正寺

深尾権太輔の墓・明正寺内

 1703年、多喜浜塩田の開発を着手した深尾権太輔は、古浜の礎となる塩田が未完のまま、病により倒れました。

 明正寺には、深尾の墓と頌徳碑「塩田永潤徳」が建てられています。

深尾権太輔の墓

天野喜四郎のお墓・久貢山山頂

 天野喜四郎元明は、備後国吉和村(尾道市)で、塩業に従事していました。
 享保8年(1723年)黒島の年寄り衆に請われ、来島し、多喜浜塩田の開発に生涯を捧げました。
 天野は、深尾権太輔により開発途中だった古浜を完成させ、この地に塩田を築きました。
 その後、天野は、享保の大飢饉に際し、西条藩に食糧対策を勧め、西条藩では1人の餓死者を出すことがなかったと言い伝えられています。
 その功績を認められた天野は、多喜浜に塩田をさらに開発し、飢饉救済事業として、その作業に従事した人へお救い米を配ろうと、藩主へお願いし、認められました。
 享保18年(1733年)東浜塩田が開発されました。この作業に従事した人が飢えに苦しまなかったことにより、喜び多い浜ということで、この地が、多喜浜と呼ばれるようになりました。
 初代天野喜四郎元明は、宝暦6年(1756年)に病で倒れましたが、塩田に対する思いは、天野家一族に受け継がれ、140年にわたって、久貢浜、北浜、三喜浜塩田が開発され、ここに240町歩の日本有数の多喜浜塩田が完成しました。

天野の墓

(天野の墓)

顕彰碑・久貢屋敷内

 久貢屋敷には、天野喜四郎の功績をたたえた顕彰碑が、1970年、新居浜市文化協会により建てられています。

 文字は、鷲尾勘解治(わしおかげじ)によるものです。

久貢天野家

ソテツ

 ソテツは、天野喜四郎元明が享保8年(1723年)にこの地に居を構え、塩田開発に当たったことを記念して植えられたものです。管理は、天野家により、代々行われ、現在も、根回り5,4m、高さ5mという大変見事な姿を保ちつけています。
 このソテツは、愛媛県の天然記念物としても、貴重な存在となっています。

ソテツ

藤田分家

 こちらには、多喜浜塩田中興の祖・藤田達芳翁の胸像が屋敷内にあります。

 藤田達芳は東京専門学校(現在の早稲田大学)で政治学を学んだ後、東浜産塩株式会社を設立し、経営の合理化と近代化を図りました。

 また、新居浜で初めての衆議院議員として、塩専売法の制定に尽力したほか、日清戦争の講和条約を結ぶ際に、伊藤博文首相に帯同し、李鴻章との交渉に臨んだということです。

藤田分家

藤田本家・岡城館

 藤田家は江戸時代より西条藩多喜浜塩田惣肝煎役を務める傍ら、屋敷内に道場を構え、近隣の青少年に武芸を指南していました。

 岡城館剣道場では、現在でも、青少年に対する剣道指南が行われております。

 屋敷内に構えられた迎賓館からは、北方に広がる多喜浜塩田が一望できたそうです。

藤田本家・岡城館

岡本家

 天野喜四郎元明らとともに、多喜浜塩田開発に取り組んだ樽屋与一郎(岡本家)は、塩田築造以来、塩田地主・塩田経営者として、昭和34年(1959年)、国策による廃田を迎えるまで、製塩業に従事しました。

岡本家

湊神社

 湊神社は、享保9年(1724年)、多喜浜塩田の守護神として、備後国吉和浜(現在の尾道市)の吉和浜湊大明神から天野喜四郎ら6人衆が勧請したもので、境内社としておかれた塩がま神社は、仙台から分け移したものです。
 かつては、東浜塩田の中央部に鎮座していて、「浜の宮」と呼ばれていました。
 塩田廃止後の昭和49年(1974年)10月に、現在地に遷座(せんざ)されました。

湊神社

多喜浜公民館に到着です。

 多喜浜には、塩田にまつわる遺産が、点在しておりますので、郷土の産業遺産を知るためにも、一度、訪ねてみてはいかがでしょうか?

 多喜浜公民館には、多喜浜塩田資料展示室がありますので、遺跡巡りにあわせて見学なさってください。

 また、お隣の多喜浜小学校に建てられたミニ塩田施設「ソルティ多喜浜」・「塩の学習館」等を利用した塩づくり体験も行っておりますので、一度体験なさってください。

 資料室の紹介はこちら

 塩づくり体験の紹介はこちら

公民館