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新居浜港の沿革

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ページID:0004528 更新日:2014年12月1日更新 印刷用ページを表示する
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黎明期から昭和初期

新居浜港はかつては、愛媛県東部の一漁村にすぎなかったが、元禄3年(1690年)、本港背後において別子銅山が発見され、翌元禄4年(1691年)から住友家により開坑されたことが、本港が発展する契機となり、明治時代に入ると、近代的な採掘方法や運搬方法の採用による産出銅の飛躍的な増大や、惣開の近代的精錬所の完成及び埋立による諸施設の拡充により、惣開が別子銅山経営の中心となった。
 昭和初期には、銅山を主体とする事業の関連産業の成長に伴う阪神間との船舶の増加や、さらに、アルミ精錬の開始に伴う原材料の輸入船舶の増加及び船舶の大型化に対処するため、住友金属鉱山は第一次及び第二次の大築港計画を計画・実施し、戦前までに、現在の臨海コンビナートの基礎が形成された。

戦後から現在まで

当地は戦災を免れ、所在各工場はいち早く立ち直り、港勢もまた戦前の活況に復し、昭和23年に開港に指定され、また昭和26年には重要港湾に指定された。同年、出入国港に、昭和28年には検疫港に指定され、また、同年には港務局が設立され、従来の私港的港湾から脱皮した近代港湾としての体制を整えた。
 その後の社会経済が変化する中で、本港が民間企業の専用ふ頭を中心として港が生成されてきたという歴史的経緯から、公共ふ頭が著しく不足しており、背後地域の経済活動を支える流通機能の強化拡充に対応する公共ふ頭等の整備が望まれた。また、中距離フェリー施設の要望も高く、併せて、海洋レクリエーション需用の増大に対処する施設が要請された。

新居浜港はどこからどこまで

これらに対応するため、東港地区を中心とした港湾計画が昭和56年8月に改訂され、同計画に基づき整備が進められた結果、昭和63年4月から神戸・大阪間にフェリーが就航を開始した。また、内貿貨物を取り扱う水深7.5m及び5.5m公共ふ頭も平成2年以降供用しており、四国最大級のマリーナ施設(マリンパーク新居浜)も平成8年4月から供用開始している。

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将来に向けて

現在、新居浜港の背後地域は、本四3連絡橋や四国縦貫・横断自動車道の進展により、アクセスの利便性及び地域のポテンシャルを活かした、今後の発展が期待されている。
 このような中で、新居浜港は、近年の経済のグローバル化の進展による物流需用の増大やコンテナ化をはじめとした輸送革新に対応した物流機能のより一層の強化・充実を図るとともに、地域の環境保全のための廃棄物受入空間の確保や大規模地震時の防災機能構築等を基本方針として、平成11年7月の港湾審議会の議を経て、港湾計画を改訂した。