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広瀬公園にある旧広瀬邸は、別子銅山の近代化により日本の近代産業を育成し、住友グループと工業都市・新居浜の礎を築いた広瀬宰平の旧邸と庭園です。
平成30年2月13日、旧広瀬邸の庭園が、「迎賓・祝祭・顕彰の場を兼ね備えた近代日本における地方の庭園文化発展を示す重要な事例である」として、国の名勝「旧広瀬氏庭園」に指定されました。
なお、旧広瀬邸の母屋や新座敷など主要な建造物は、平成15年に国の重要文化財「旧広瀬家住宅」に指定されています。
内庭から見た母屋・新座敷(撮影 木村 孝(きむらこう))
【内庭(うちにわ)】(迎賓空間)
広瀬宰平は、この地を本邸と定め、明治20年(1887)に久保田から母屋を移築し、明治22年には大阪住友出入り大工棟梁・八木甚兵衛による新座敷が竣工しました。母屋と新座敷に面する内庭は、明治20年に大阪の植木屋・武田清兵衛(たけだせいべえ)によって作庭されたもので、赤石山系の借景や渓水の取入れなど自然と一体となった景観となっています。
心字池の周りに、銅板葺の四阿・潺潺亭(せんせんてい)や茅葺の茶室・指月庵(しげつあん)があり、庭奥の築山には銅製三重塔・凌雲塔(りょううんとう)が据えられています。
明治23年の別子開坑200年祭では、住友家当主や貴賓を迎える迎賓館としての役割を果たしました。
新座敷から見た内庭(撮影 木村 孝(きむらこう))
【亀池(かめいけ)】(祝祭空間)
亀池は、江戸時代の終わり頃、嘉永4年(1851)に水田開発用の溜池として、住友家によって築造されたのが始まりです。明治7年(1874)に宰平が住友家から譲り受け、明治24~27年にかけて周遊路や千歳島などが整備されました。
明治31年の宰平の古希(70歳)祝いでは、千歳島と周遊路に模擬店が出され、亀池に船を浮かべ、夜には花火を打ち上げるなど、祝祭の空間として使用されました。その後、亀池周辺は広く一般の憩いの場として開放されました。
亀池と千歳島(撮影 岡田えり子)
【南庭(なんてい)】(祭祀・顕彰空間)
南庭は、明治の終わり頃から拡張され、宰平の没後、長男 満正(まんせい)により父祖を顕彰する場として大正時代に整備されました。
煉瓦造(れんがづくり)の書庫・馨原文庫(けいげんぶんこ)、持仏堂・靖献堂(せいけんどう)、広脇神社などがあり、靖献堂の前には芝生が広がります。また芝生の東南には、宰平の古希記念に住友家から贈られた宰平銅像の台座が残っています。
南庭(撮影 木村 孝(きむらこう))