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山根製錬所は、明治21年(1888年)5月、惣開地区の製錬所と時をあわせて竣工された。
設計したのは、東京大学の教授であった岩佐巌。
岩佐は広瀬宰平の招きに応じ、別子銅山で廃棄していた低品位の鉱石から硫酸などの化学薬品の回収と、残った鉄分からの製鉄を目指した。
それは、官営八幡製鉄所に先立つこと7年であった。
残念ながら事業としては成り立たず、わずか6年余りで製錬所は閉鎖されたが、わが国最古級の重化学工業の忘れ形見である煙突は、120年を経過した今日でもレンガ造りのその愛らしい姿により、市民からは「えんとつ山」の愛称で親しまれ、市のシンボルとして市の発展を見守り続けている。