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元禄15年(1702)に、別子銅山の新居浜口屋が現在の本町通りに面して設けられ、新居浜浦は次第に発展してきた。この通りには雑貨屋、呉服屋、料理屋、旅館などが立ち並び東新地方第一の繁華街として栄えてきた。明治22年(1889)に惣開に分店が移転後、新居浜口屋跡は小学校、町役場、市役所、図書館などになった歴史を見ると、本町通りがメインストリートであったことが伺える。
また、明治43年(1911)には、新居浜町内の各社を合祀して新居神社を本町通りに面して設けたが、昭和25年(1950)には大神宮を合わせ一宮神社境内に移した。
昭和10年頃の本町通りには、東は新居浜口屋跡から西は新居神社の手前まで日除けのテントが張られていた。ひもを引くと自由に開閉できるようになっていた。今でいうアーケードである。しかし、昭和6年(1931)に昭和通りが新設されてから、順次商店が昭和通りに移っていった。
1702年ねんに、にいはまくちや(いまのくちやあときねんこうみんかん)というふねつきば(みなと)がほんまちどおりのちかくにできた。
そのごしだいにりょかんやしょうてんがおおくたちならび、にぎやかなしょうてんがいができた。
1931ねんに、しょうわどおりができ、しょうてんがしょうわどおりにうつっていった。