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本鋪、余慶、筏津、積善とある別子の四鉱床のうちの筏津鉱床の坑道である。ルイ・ラロックは、弟地で本鋪とは別の鉱床の露頭を発見し、鉱床に沿って斜坑を掘り採鉱する重要性を「別子鉱山目論見書」に書き記している。明治11年(1878)に開坑して試し掘りに入り、明治18年(1886)に採鉱場と湿式収銅所の建設に着手し、翌年に操業を開始した。最初は弟地坑と呼ばれていた。明治34年(1901)には休坑となった。
大正5年(1916)に探鉱を再開し、大正7年(1918)に鉱床を確認して筏津坑の名で操業を再開した。昭和4年(1929)には第二斜坑の開鑿を開始し、以後下部に向かって進められた。昭和18年(1943)に大立坑と筏津坑下部との間に探鉱通洞が貫通して、第四通洞と連絡することになった。昭和20年代に入っての筏津坑の下部開発は別子の産出銅の増加に大きな役割を果たした。
昭和48年(1973)3月31日の筏津坑の終掘で、元禄4年(1691)の開坑以来、283年間に及ぶ別子銅山の歴史を閉じた。
べっしどうざんの四つのこうしょう(どうこうせきがうまっているばしょ)のうちの一つである。
1878ねんにほりはじめ、おとぢこうとよばれていた。
とちゅうでほるのをやめていたが、1918年にふたたびほりはじめ、なまえはいかだづこうとよばれた。