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昭和2年(1927)、別子銅山の最高責任者となった鷲尾勘解治は、鉱量調査を実施、銅山の鉱脈があとわずかで尽きるとの結果を得た。鷲尾は、別子銅山が約240年もの間経営することができたのは、地域社会の協力のお陰であり、たとえ銅山が無くなっても、地域社会が荒廃しないようにと、新居浜の後栄(繁栄)策を次のように提言した。
鷲尾は、「企業は、利益追求が目的であるが、企業の利益だけに走ってはいけない。地域社会や労働者と共に繁栄しなければ、企業の繁栄も永続もありえない」と、企業と地域社会の「共存共栄」という理念を示した。
鷲尾は、その理念を永久に語り伝えるため、昭和6年(1931)に竣工した昭和通りにかかる橋に「共存橋」「共栄橋」と名付けた。橋の改修で初代の橋柱は、菊本町自彊舎跡地に移されて保存されている。
1931ねんにかんせいしたしょうわとおりにかけられたふたつのはし。
すみとものかくかいしゃとちいきしゃかいがともにはってんすることをねがって、わしおかげじによりなづけられた。
なまえのはいったさいしょのはしのはしらは、じきょうしゃあとちにうつされてほぞんされている。