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牛車道は、開坑以来の人肩運搬に代わる新車道。明治9年(1876)に着手したが、明治10年(1877)に勃発した西南の役により労働者や火薬の確保が困難になったことと、技術力の限界から一時開鑿(かいさく)を中断した。明治11年(1878)に開鑿を再開し、明治13年(1880)に目出度町(めったまち)から銅山峰・石ケ山丈(いしがさんじょう)を経由して立川仲宿までの約20kmが完成した。翌年から立川仲宿から新居浜口屋までの約8kmが使用され、別子山の目出度町から新居浜口屋までの約28kmが使用された。牛車の牛は、広瀬宰平の故郷である近江牛が連れてこられた。
眼鏡橋は、明治11年(1878)に牛車道の一環として立川仲宿入口の国領川に一部花崗岩づくりで架けられた。その堅牢さから不朽橋と命名された。明治32年(1899)の別子大水害のときに、頑強であるが故にダムの役目を果たし、濁流を受け止めた後に流出した。
ぎゅうしゃみちは、うしににぐるまをひかせてにもつをはこんだみち。
にいはまくちや(いまのくちやあときねんこうみんかん)からべっしどうざんまでおよそ28kmあった。
めがねばしは、たつかわにあったつよくてがんじょうなはしであったが、だいすいがいでながされた。
そのご、あたらしいはしは、すこしかりゅうにかけかえられた。