本文
室町時代の明応3年(1494)に書かれた伊予旧記に喜光寺という寺名が出てくる。場所は現在の歓喜寺か毘沙門堂のあたりと考えられている。そして、大正12年(1923)刊行の新居郡誌には、喜光寺が地名になって喜光地と呼ぶと書かれている。この寺の名前が喜光地の地名の由来である。
江戸時代に北四国を縦断する街道の金毘羅街道が、松山、今治、西条方面から喜光地を通り讃岐に至っていた。道幅は6尺(約1.8m)あまりであった。明治になって改修され、明治12年(1879)には、3等国道になり道路幅も倍の3.6mに拡幅された。
元禄15年(1702)からは、別子銅山の物資は銅山から現在の四国中央市土居町天満への輸送を止めて、銅山と新居浜口屋を結ぶ登り道で輸送されていた。この輸送路と金毘羅街道の交差している要所が喜光地である。そのため早くから発展し、道路沿いに商店や旅館が立ち並ぶ商店街が形成された。別子銅山の採鉱本部が銅山峰の北側の東平(とうなる)、端出場に移転して喜光地は商業の中心地になる。
角野警察署跡地に立っている「こんぴら大門まで十五里」や「土佐国これより三宝山へ十二里」の花崗岩の石柱は、当時の往還を物語っている。
にいはまくちや(いまのくちやあときねんこうみんかん)とべっしどうざんをむすぶなんぼくのみちとこんぴらかいどう(かがわけんのことひらにつながるみち)のとうざいのみちがまじわるところがきこうぢである。 そのために、このあたりにおおくのりょかんやしょうてんがたちならび、にぎやかなきこうじしょうてんがいができた。