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福岡生まれの美術評論家・河北倫明(かわきたみちあき)氏(1914−1995)は著文「日本近代美術と九州」(初出掲載『九州文化論集』1975年、平凡社刊)の中で、九州地方の美術の特性として、「外来文化に対する在来の積極的な態度、新しいものに対する多くの慣れと経験」が大きな影響を与えていることを指摘しています。古来より東アジアやヨーロッパから、仏教やキリスト教をはじめ、様々な最先端の外来文化を受容・展開してきた同地方では、明治維新の原動力となった薩摩藩と佐賀藩を中心として、日本近代洋画の主潮をなす優れた洋画家を数多く生み出しました。
鹿児島では、藩主・島津斉彬(なりあきら)の西洋化を見越した先進的な政策の影響から、幕末から明治にかけての揺籃期(ようらんき)に、床次正精(とこなみまさよし)(1842−1897)、曽山幸彦(そやまさちひこ)(1860−1892)の二人がその先駆となりました。曽山が東京で開いた画塾「大幸館(だいこうかん)」には、後に同郷の藤島武二、和田英作らが学んでいます。さらに黒田清輝は、法律を学ぶためフランスに留学中、藤雅三(ふじまさぞう)(大分出身)や山本芳翠(やまもとほうすい)(岐阜出身)の勧めから、ラファエル・コランに師事し、洋画家としての道を歩みはじめました。黒田の登場は、日本近代洋画壇における九州出身画家の堅固なネットワークの基盤となり、「近代洋画の父」として優れた後進を次々と育てあげます。
一方の佐賀では、藩主の鍋島斉正(なりまさ)(直正)(なおまさ)による蘭学や西洋の科学技術を先取する姿勢から、油彩画の迫真性に魅了される先人が生まれます。百武兼行(ひゃくたけかねゆき)(1842−1884)は、明治初年に外交官としてイギリスに渡った際に絵を始め、その後、フランス、イタリアで本格的な油彩画技法を学びました。同郷の岡田三郎助は少年時代に百武の絵を見て西洋画を志したといいます。また百武に学んだ小代為重(しょうだいためしげ)、黒田との交友により「白馬会」や東京美術学校で教育者として重要な役割を果たした久米桂一郎の存在も見逃せません。
福岡では、筑前・筑後のふたつの地域から、明治中期以降、傑出した画家が生まれます。筑後の久留米では、森美三(もりみよし)(1872−1913)に学んだ青木繁や坂本繁二郎、また古賀春江らが、郷里への思いを大切にしながら、独自の画境を究めました。筑前・福岡では、県立修猷館中学の絵画サークル「パレット会」での繋がりから、児島善三郎、中村研一・琢二兄弟が、在野・官展の分野でそれぞれ活躍をしました。
九州地方各県には、他にも中央画壇と地方画壇の交流のキーパーソンとなる重要な画家が数多く存在しますが、それらはいずれも明治から連綿と続く「近代洋画はじまりの土地」ならではの独自の歴史や風土が強く反映されたものといえます。
中国山地を挟んで、瀬戸内側の山陽(岡山・広島・山口)と日本海側の山陰(鳥取・島根)という二つの気候や風土の異なる地域からなる中国地方では、いずれも江戸期からの藩絵師などによる日本画の素地を背景として、幕末・明治初期に洋画を志す先覚者が現れています。
岡山県では、堀和平(ほりわへい)(1841−1892)と前田吉彦(まえだよしひこ)(1849−1904)が、第1世代として神戸に出て独学で洋画を学んでいます。その後、第2世代として、明治初期のわが国の洋画普及を支えた渡辺文三郎、平木政次、松岡寿、原田直次郎、松原三五郎、原撫松らが東京や京都の画塾・美術学校で学び、松岡、原田、原らが積極的に海外に留学をしました。こうした洋画家隆盛の背景には、江戸期の岡山藩学校以来の蘭学(洋学)研究の影響や、教育熱心な進取の精神・地域性も関係していたようです。また第3世代となる満谷国四郎、鹿子木孟郎らは、ともに松原に学び、東京でも「不同舎」の同門として、「太平洋画会」や官展で活躍しました。その後、第4世代として赤松麟作、児島虎次郎、正宗得三郎、第5世代として坂田一男、国吉康雄、中山巍、岡本唐貴らが、大正から昭和にかけて、官展・在野を問わず、後進を指導するとともに、幅広い活躍をみせています。
広島県では、小林千古(こばやしせんこ)(1870−1911)が最初期の洋画家として、アメリカ、フランスで美術を学び、滞欧中の黒田清輝や岡田三郎助らとの交流から、帰国後に「白馬会」に出品しています。また短期間ではあるものの、帰郷時に画室で洋画指導を行い、後進に影響を与えました。南薫造も師である岡田からの紹介を受け、千古の画室を訪れたといいます。その他にもシュルレアリスム的作風を越えた幻想世界で知られる異才画家・靉光(あいみつ)の存在も際立ちます。
幕末の西南雄藩である長州藩(山口)では、官立の工部美術学校を長州人脈の官僚が開校しましたが、鹿児島や佐賀のように、実際に洋画を学び積極的に時代をリードする先覚者は生まれなかったようです。同県では、大正期以降に小林和作が京都で、昭和初期に香月泰男が東京で洋画を学び、いずれも後に広島・山口を拠点に独自の画境を拓きました。
鳥取県では、遠藤董(えんどうただす)(1853−1945)が東京で高橋由一の「天絵社(てんかいしゃ)」に学び、帰郷後に地元の洋画普及に大きな役割を果たしました。また東京美術学校西洋画科が設置されてからは、前田寛治をはじめ、多くの出身者が進学をしました。とりわけ前田は、地元で仲間たちと「砂丘社」、パリでの画家仲間と「一九三〇年協会」を結成、さらに「前田写実研究所」を開設して後進を指導するなど、地域を超えた縦横のネットワークを展開した点でも重要な作家といえます。
四国地方の洋画家として第一に挙げられる人物に、高知出身の国沢新九郎(くにさわしんくろう)(1847−1877)がいます。明治維新に重要な役割を果たした土佐藩の留学生として、法律を学ぶためイギリスに渡りますが、方向転換して、西洋で初めて油彩画技法を学んだ日本人となります。帰国後は東京で画塾「彰技堂(しょうぎどう)」を開き、本多錦吉郎(ほんだきんきちろう)、浅井忠、徳島出身の守住勇魚(もりずみいさな)が国内で最初期の洋画教育を受けました。同塾は、わが国初の洋画展覧会を開催したことでも知られます。高知出身者も多く、塾生の上村晶訓(うえむらしょうくん)は、帰郷後に小学生時代の石川寅治や、同門の楠永直枝(くすながなおえ)とともに山脇信徳を指導するなど、高知洋画界の礎を築きました。
そのほか、徳島県では三宅克己、伊原宇三郎、香川県では小林萬吾、猪熊弦一郎、愛媛県では下村為山、中川八郎、中野和高、野間仁根などが、中央画壇において活躍するとともに、地域を代表する画家として、郷里の後進たちの精神的な支柱となりました。
四国出身の洋画家の特徴として、師や所属した美術団体は様々なものの、若い時に東京に出て画塾や美術学校に学んだ者が多くいる点が挙げられます。そのような中で、本展出品作家の石川と中川がともに、東京で小山正太郎の「不同舎」に学び、「明治美術会」に所属する同世代の仲間とともに活躍の場をアメリカに求め、太平洋を渡ったことは興味深い事実といえます。
その背景には、フランスから外光派表現をもたらし、「白馬会」や東京美術学校西洋画科などで明治洋画界の主潮をなした黒田清輝・久米桂一郎ら維新の西南雄藩出身者と、石川・中川の属する明治美術会の中心的存在であった旧幕藩出身の浅井や小山らの間での、時代の変革が生み出した「新・旧」の対立構造も影響していたことが考えられます。石川や中川は、帰国後に「太平洋画会」の主要メンバーとして、師に学んだ写生と自然描写の精神を大切に、仲間たちと明治洋画の「もう一つの道」を拓き続けました。
京都・大阪・神戸という3つの都市圏を中心に、それぞれが異なる「上方」の文化を育んできた近畿地方における洋画の歴史を辿ると、互いの地域が密接に関わりながらも、独自性をもって発展を遂げていったことがわかります。
京都では、田村宗立(たむらそうりゅう)(1846−1918、丹波国生まれ)が、1880(明治13)年に開校した京都府画学校の西宗(洋画科)において、近畿地方における最初期の洋画教育を行いました。田村は、浅井忠が1902(明治35)年に京都高等工芸学校教授として着任するまで、京都の洋画界を牽引した先駆者といえます。京都を訪れた黒田清輝との交流や、京阪の洋画家で結成された「関西美術会」の発起人を務めるなど、重要な役割を果たします。
その後、浅井や鹿子木孟郎が指導した「関西美術院」が開設されると、安井曾太郎、梅原龍三郎、須田国太郎、向井潤吉をはじめ、多くの人材が同院に学び、大正から昭和にかけて日本近代洋画の成熟期を支えました。
一方、大阪の洋画の歴史は、東京などに比べてやや遅れをみせており、明治20年代以降、江戸生まれの山内愚遷(やまのうちぐせん)(1866−1927)や、岡山生まれの松原三五郎(まつばらさんごろう)(1864−1946)が大阪に移り住み、その技術を普及させました。松原は岡山時代に鹿子木や満谷国四郎らを指導し、大阪では「天彩画塾(てんさいがじゅく)」を開いて小出楢重、寺内萬治郎、中川八郎らが教えを受けています。洋画を志す若者たちは、主に東京美術学校に進学し、小出、寺内のほか、鍋井克之、大久保作次郎らも、黒田をはじめとした外光派アカデミズムによる美術教育を受けました。
大正期に入ると、官展と在野団体の対立もあり、画家たちは堅実なアカデミズムの道と、新たな表現を求める創作の道の選択を迫られます。小出、鍋井ほか在野の「二科会」に所属する関西在住画家によって、1924(大正13)年に「信濃橋洋画研究所」が開設されます。研究所には田村孝之介をはじめ多くの生徒が集い、戦前・戦後の関西洋画界を牽引する人材を生みました。
兵庫では、神戸が近代開港都市でもあったため、西洋からのモダンで新しい文化が次々と普及していきました。金山平三と小磯良平はともに神戸を代表する画家ですが、いずれも東京美術学校で学んだ後、フランスに留学して洗練された画風を究めました。また大正末から昭和戦前期にかけては、阪神間モダニズムといわれる西洋風の郊外型ライフスタイルと、より良い制作環境を求めて、大阪からも小出や田村をはじめ、多くの画家が生活の拠点を移しました。
東海地方における洋画の先覚者として第一に挙げられるのが、山本芳翠(やまもとほうすい)(1864−1906、美濃国生まれ)の存在です。芳翠は横浜に出て初代五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)やイギリス人挿絵画家ワーグマンに西洋画の技法を学んだ後、工部美術学校に入学しています。その後パリに10年間留学し、フランス新古典主義の流れを汲む画風を身につけました。また法律を学ぶため留学していた黒田清輝に洋画への転向を勧めたことでも知られます。帰国後は東京に画塾「生巧館(せいこうかん)」を開設し、藤島武二らを指導、「明治美術会」や「白馬会」の創立にも参加しました。フランスから帰国した黒田に画塾を譲り、後の白馬会洋画研究所への展開を導いたという点でも、歴史上重要な人物です。
そのほか、岐阜出身の洋画家に、生巧館で芳翠に学んだ北蓮蔵(きたれんぞう)(1876−1949)や、小山正太郎の「不同舎」に入門した長原孝太郎(ながはらこうたろう)(1864−1930)がいます。両者はともに黒田に学び、東京美術学校や白馬会でも活動するなど、明治洋画の本流を歩んだ人物といえます。本展出品作家では、熊谷守一、小寺健吉がともに東京美術学校で黒田や、同郷の長原から指導を受けています。
愛知県では、徳川時代からの古趣味の影響も関係してか、洋画の普及・定着に時間を要したようです。地域からの大きな流れが生まれたのは、1917(大正6)年、岸田劉生らが名古屋草土社展を開催し、これに刺激を受けた大澤鉦一郎(おおさわせいいちろう)らが「愛美社(あいびしゃ)」を結成しました。また1923(大正12)年に鬼頭鍋三郎、松下春雄らが洋画団体「サンサシオン」を結成しています。一方で、鬼頭や松下と同世代にあたる荻須高徳や三岸節子は、上京してそれぞれ東京美術学校、女子美術学校に学び、長くフランスで生活・制作を続けた点で共通しています。
世代は異なるものの、静岡生まれの山下充も戦後上京して、野口弥太郎に学ぶとともに、長くフランスを拠点に活動した画家です。
江戸時代より交通の発達した東海道があり、関東と関西というふたつの都市圏の中間に位置する同地方において、上京や留学、海外移住など、様々な可能性の中から、画家がどのような選択をしたのかを考えることも興味深い視点といえます。
北信越地方に位置する長野・新潟・富山・石川・福井の5県は、現在では新幹線の開通もあり、関東または関西いずれからも比較的アクセスのしやすい土地ですが、地域によって都市圏との結びつきが異なります。経済・文化などの関わりとして、信越地方(長野・新潟)と関東圏、北陸地方(富山・石川・福井)と関西圏の関係が歴史的にも深いといわれています。明治期以降、都市圏から離れた当地方で洋画の道を志した画家たちは、関東や関西に開かれた画塾や美術学校において油彩画の技法を学びました。
近代洋画の歴史をたどる際に、信越地方に生まれた最初期の洋画家として、川上冬崖(かわかみとうがい)(1827−1881、信濃国生まれ)の存在が挙げられます。冬崖は江戸に出て蕃書調所(ばんしょしらべしょ)で西洋画法の研究と指導にあたりました。その冬崖が1869(明治2)年に東京で開いた画塾が「聞香読画館(ちょうこうどくがかん)」です。そして、この画塾に学んだ画家に越後国長岡藩生まれの小山正太郎(こやましょうたろう)(1857−1916)がいます。小山はその後、浅井忠らとともに工部美術学校でイタリア人風景画家・フォンタネージに師事し、自ら画塾「不同舎」を開設します。不同舎では、青木繁、坂本繁二郎、鹿子木孟郎、満谷国四郎、中川八郎らが門弟に入り、後に近代洋画界の新たな道を拓く人材が多く育ちました。
本展で紹介する長野生まれの画家として、中川紀元と小山敬三がいます。中川は南信州にあたる諏訪地方から東京美術学校彫刻科に入学するも中退し、マチスからの影響を受け、大正期に古賀春江らと前衛団体「アクション」で活動しました。一方の小山は、東信州の小諸に生まれ、上京して「一水会」や日展で活躍した画家です。また牧野虎雄は新潟に生まれ、5歳の時に一家で東京に転居しますが、東京美術学校西洋画科に学び、東洋の自然観照にも通じる日本独自の油彩画のあり方を追求しました。
北陸地方では、福井生まれの佐々木三六(ささきさんろく)(1860−1928)が明治初年にイタリアに留学して美術学校で図画と油絵を学び、帰国後は「明治美術会」の発足に参加しました。また教育者として石川県の図画教師を務め、後進を育てるなど、石川の初期洋画壇を牽引した先覚者です。
富山県人最初の洋画家には田部英嘉(たなべえいか)(不明−1888)、また石川生まれの先人に矢野倫真(やのりんしん)(1864−1943)がいます。二人はともに京都府画学校で田村宗立に洋画を学び、同門として交友を結びました。
時代は下るものの、ともに石川生まれで師弟関係にあった画家に宮本三郎と鴨居玲がいます。宮本は15歳の時に兄の住む神戸に移り、その後東京の川端画学校や京都の関西美術院で洋画を学んでいます。関西美術院の先輩でもある安井曾太郎にも指導を受け、戦前は小磯良平らとともに従軍画家として戦争記録画の制作にも携わります。また戦後の一時期、金沢美術工芸専門学校で教鞭をとった際に、鴨居が生徒として宮本の薫陶を受けています。その鴨居も、宮本が所属した「二紀会」に出品していた関係から、神戸在住で同じく二紀会の田村孝之介に師事するとともに、西宮市に転居し、以後神戸を拠点に活動を続けました。
これら北信越地方それぞれにおける洋画家たちの動向からは、当地の関東・関西各都市圏との繋がりや、同郷人同士の緊密なネットワークの存在を確認することができます。
これまでの日本の近代洋画の歴史は、東京をはじめとする関東地方を中心に形づくられてきたといっても過言ではありません。その背景には、江戸から明治に時代が移り変わる中で、わが国が西洋の近代文化を積極的に取り入れた結果、油彩画による迫真的・写実的な絵画技法や理論を習得する教育機関(画塾・学校)が成立し、作品発表と評価・受容の場が同地を中心に展開されたことが挙げられます。
明治初年には、蕃書調所で西洋画法の研究と指導にあたった川上冬崖や、イギリス人挿絵画家ワーグマンに学んだ五姓田義松(ごせだよしまつ)(1855−1915、江戸生まれ)、高橋由一(たかはしゆいち)(1828−1894、江戸生まれ)らが東京で画塾を開き、全国各地から油彩技法を学ぶ門弟が集いました。また1876(明治9)年には官立の工部美術学校が創設され、浅井忠や小山正太郎らがイタリア人風景画家フォンタネージから指導を受けました。1889(明治22)には国粋主義思潮による洋画排斥の動きに反発する浅井、小山らが、わが国で最初の洋画団体「明治美術会」(後の太平洋画会)を創設し、素描や水彩画による写生や、自然描写を重んじた西洋の伝統的絵画技法の普及に努めました。
一方でフランス留学から帰国した黒田清輝を中心に、外光派風の新たな表現が招来され、1896(明治29)年には「白馬会」(後の光風会)が結成されるとともに、東京美術学校に西洋画科が新設され、黒田をはじめ、藤島武二、和田英作、岡田三郎助ら九州地方出身の洋画家たちが中心となって後進を指導しました。
その後、1907(明治40)年に最初の官設公募美術展「文部省美術展覧会(文展)」(後の帝展、日展)が開設されると、田辺至、小絲源太郎をはじめ、東京美術学校に学んだ学生や美術団体に所属する画家たちが腕を競います。同じ系譜の画家には、刑部人、辻永らも位置づけられます。
明治末年から大正期にかけては、フランスをはじめ西洋に留学をする画家たちが増え、ポスト印象派やフォーヴィスムなどの新しい表現が次々にわが国に伝わります。そのような中、石井柏亭や山下新太郎らは文展のアカデミズムに反発する形で1914(大正3)年に「二科会」を結成し、在野精神に基づく自由な表現を追求しました。同会では鈴木信太郎(のち一陽会)、鶴岡義雄も活躍しています。一方で、岸田劉生や中川一政らは「草土社」を結成し、若い力で自我と個性を発揮した大正期のエネルギーと雰囲気を湛えた独自の油彩画表現を拓いていきます。
昭和期に入ると、洋画団体も多様化をみせ、古典に学ぶとともに、留学により西洋の新思潮・流行を肌で感じた画家たちが、日本独自の洋画表現を求めて新たな作風を次々と生み出します。エコール・ド・パリの影響を受けた「一九三〇年協会」の木下孝則や、力強いフォーヴィスム的な画風を基底とする「独立美術協会」の林武、高畠達四郎、野口弥太郎、森芳雄(のち自由美術協会)らは、戦前・戦後を通じて、オリジナリティを重視した具象絵画の形を探求し続けた作家といえます。
一方で、海外で評価を獲得し独自の画境を拓いた画家として、フランスで活躍した岡鹿之助や、高野三三男、長谷川昇、ニューヨークとパリで評価を得た清水登之らも注目すべき存在といえます。また戦後には、小磯良平らが中心となり設立した「新制作派協会」に所属する相原求一朗が、抽象表現を超えて、新しい具象絵画・風景画のあり方を探求しました。
本展出品作家のほとんどが、何らかの形で東京での活動(教育・作品発表・居住等)を行っていますが、東京や関東圏をひとつの「地域」として捉え直した時に、我々がこれまで中央と地方として位置づけてきた歴史の姿に「新しい視点」を見出すことができると言えるかも知れません。
*テキスト・井須圭太郎(本展担当学芸員・新居浜市文化振興課主査)