垣生に伝わる昔の話です。浜中に(本郷の1部)代作というたいへん孝行な若い衆が、母と2人百姓をしてひっそりとくらしておりました。代作は父が早く死に14、5歳で家の大黒柱となり、大人にまじって日雇い稼ぎで人々を感心させていた若者でした。 母は、60歳を過ぎて一人前の働きができず、息子の代作の助けがいる生活でした。当時地域のならわしで、年を取って働けない老人は、みな一様に「番屋嶽」で往生することになっておりました。(番屋嶽の地名は今もあり、垣生山の北の隅を少し登った所、現在灯台がある所を苫立山といいます。その苫立山の峰を登って長磯の頂上までを「番屋嶽」といっています。それは昔西条の殿様が紀州よりお国入りの折、此の崖の頂上付近に「番所」を設けて水先案内の役人を置いて下段の「苫立」でのろしを揚げ「御代島」に合図を送った地点で地名として今に残された山崖です。) その時代は、年を取るとみな一様に「番屋嶽」を老人の墓場としておりました。代作の母は、「代作や、わしも年を取り過ぎて番屋嶽に行くのが遅れとる。隣の婆も昨年の今頃は山に入ってしもとった。秋の甘藷の取りこみがすんだら、寒うならないうちに、人に気づかれないようにして山に行きたいわい。支度も前々からして、覚悟もついているから山へつれて行ってくれ。」といって頼みました。 孝行者の代作は母の願いは切なく、また母が恋しい。1度はふみきらなければならない悲しい別れです。地域の掟にはさからうことはできません。 「それでは婆さんや、今月の満月の夜、地区の年寄りの待っているお山に行くことにしよや、今晩は私が負い籠をつくることにするかいな。」と代作は、涙ながらに作業にかかった。 親を慕う子、子を思う親心、貧しいがゆえに親子が離別しなければならない心境は今の世の人には知るすべもありません。月の煌々とさえる晩に代作は母を背負い、淋しい山道を重い足をひきずり晩屋嶽に向かって歩みました。 「母さんよ、このマツの根方に草を敷いて寝床をこしらえるから、ひもじゅうなったらこの袋の中の甘藷か、握り飯を食べてくれいやあ。竹筒に水も入れて来たきに飲むんぞな。誰も来んから一心に北の方「明神嶽」を拝むのよ。「大明神」は吾らの守り神だからねや、優しくおかげを授けてくれるけにのう。3日して月が昇るとまた来るからのお。」 親は子の手を取り、子は母の涙を堅い手で拭いた。切ない別れをして代作は、とぼとぼと家路についた。代作は、仕事も手につかず眠られず、3日後の月の昇るのを待ちかねて「苫立」の「番屋嶽」へ登っていきました。「姥口」を過ぎて北の方を眺めると一丈余(約3メートル)もある長い提灯が青白くともり、月に映え、代作の歩む草むらを照らしておりました。 「ああ母さんが、わしを案じて導いてくれているのだ。」と心はやり、母を置いたマツの根本に行ってみると母の姿はなく、大明神の方向できらきらと3度光が放たれるのをみました。 それから後も、番屋嶽から苫立にかけて、月の晩長い長い提灯がつくという話が残っています。 (八幡3 故 近藤政好 投稿) |