元禄13年(1700)多喜浜塩田の築造が開始される頃まで、多喜浜は遠浅の海で、現在の楠崎興玉神社の石段の麓を東西に走っている旧阿島街道のあたりまで、小波が静かに打ち寄せて、それはまことに美しい眺めでした。そうして、松並木の数本茂る楠崎の磯辺に古くから海津見神と豊玉姫をお祀り申し上げた小さな祠がありました。 里人達は、この祠を御前さまと呼んで漁業の神さま、お乳の神さま、子供の神さままた、いぼとりの神さまとして信仰していました。 多喜浜の浜辺に住んでいた1人の漁師が年の瀬も押し迫ったが、毎日毎日風のため不漁続きで困り果てた末、或夜のこと、御前さまにお参りして、「長い間不漁続きで困っています。どうか明日からは漁がありますようにしてください。」とお祈りいたしました。 そうして翌朝早く御前さまにお参りして祠の前の磯辺をみると、不思議にもそこに数十匹のタイが泳いでいるではありませんか。驚いた漁師は、これは神さまからのお授けに相違ない。ありがたいことだ。と、神さまに幾度も幾度もお礼をいいながらそのタイを獲って村に売りに行き、家に帰りました。 そうして、そのことが翌日から毎朝のように続き、漁師はいつしか大金持になり、世の中の人々のためにも尽くしたそうです。 また、御前さまには、子供のいない夫婦がお百度参りをして子供が授かったという話しも多く伝えられています。 また、「いぼ」のできた人がお参りして、そこの苔をつけて、1日するときれいに「いぼ」がとれていたと今も喜んでいる人がたくさんいます。 また、御前さまの境内には乳石といって乳の出ない人がその石のかけらをお米と一緒に炊いて、その粥を飲むと乳がよく出るといわれ、その乳石も今では十分の一の大きさになって鎮っておられます。 (多喜浜 湊神社宮司 近藤和稔 投稿) |