昔、新居浜市の東部開城の大島の漁師の家に、1人の男の子が生まれた。その赤ちゃんは非常に大きな赤ちゃんでした。お家の人たちはこの男の子が生まれたことをたいへん喜んで、「島で1番大きく強くなるように。」と願って「島之助」という名をつけました。 島之助は、すくすくと育って、8歳になった頃には、普通の大人よりも大きいくらいになり、しかもたいへんな力持ちになりました。15歳になった時には身長は2メートル30センチくらいになり体重は130キログラムにも達する大男になりました。 その頃島之助はお家の手助けをして、海へ漁に出ていましたが舟を出すときも、舟を陸へ上げるときも、1人で軽々とし、力のいる帆柱を1人で起こして立てたり、倒したりしていました。その上重い碇を(約400キログラムもある)1人で投げこんだり、引きあげたりして島中の人たちをおどろかしていました。 そのうちにも、身体が年と共にますます大きくなって、大人になった時身長は2メートル50を遙かに越し体重も180キログラムに達し、それはそれはみごとな身体になりました。島の人たちは島之助を見てはことごとに、「その身体で漁師などするのはおしい、お角力さんになったらよいのに。」とすすめました。そのすすめに心が動いて島之助は「石鎚島之助」と四股名を名のり角力取りになりました。身体は大きいし力もあるので誰と組んでも負け知らずでだんだん出世しました。 その頃力士として有名だった「兜山権太右衛門」と角力を取り、権太右衛門を投げ殺してしまいました。それで一層有名になり、島之助は力では日本一だといわれるようになりました。 そのことが紀州の殿さまの耳に入り、是非にという所望で、紀州公お抱えの力士になりました。が、ふとしたことで紀州の殿さまのご機嫌を損ね、おひまをもらって島に帰りました。 島に帰った島之助は島の若者に角力を教え、かたわら百姓をしてのんびりくらしました。 ある時、黒島のすぐ南にきれいな小さな島が2つあるがあの島は少し西にあったらなおよいのにという人があった。それを耳にした島之助は、2つの島を天秤棒でかついで西の方へあるき出したが、あまり重いのでひと休みした。ひと休みする間に島に根が生えて動かなくなってしまった。この2つの島は今の「大久貢と小久貢」になった、と。 久貢山には大ネコがいて浜子の弁当をよく盗ったといいます。 (大島の古老の話と垣生の昔を語る会で出た話の要約) |